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コメント
42: by on 2013/02/02 at 01:38:06

この作品のレビュー待ってたひとりです

43:名無しさんへ by おく on 2013/02/02 at 03:21:24

コメントありがとうございます。
レビューを待っていたと言っていただけて本当に嬉しいです。

これからも作品のレビューを中心にブログの方は続けていきたいと思います。

「沙耶の唄」雑感

saya2
タイトル:「沙耶の唄
ブランド:NitroPlus
※以下ネタバレを含みます


――それは、世界を侵す恋。

沙耶の唄は僕の大好きな作品の一つで、何度も繰り返しやり直している。つい先日も再プレイしたし今年で発売十周年ということで、せっかくなので今回は沙耶の唄について僕が思うことを書いていきたい。
※今回評価の項目を設けなかったのは初プレイではなく既に内容を知っていたため

「沙耶の唄」は本当に純愛を描いた作品であるのか?

この議題は沙耶の唄を語る上で必ずといっていいほど話の話題になる。まずはこれに関する個人的見解を述べていきたい。

「純愛」という語を広辞苑で引いてみると、「純粋な愛。ひたすらな愛情」
またWikipediaには「汚心のない、ひたむきな愛」とある。

この意味を字面通りに受け止めると純愛のカテゴリーに位置するのかなと思うのだが、人によってはあれは純愛ではなく単なる情に過ぎないと感じるかもしれない。ただこの論争は僕に言わせれば無粋であり意味がないことだと思う。沙耶の唄の本質的評価は純愛か否かによって左右されるものではないからだ。何かしら定義付けしたいという気持ちは分かるのだけれども。


ご存知の通り郁紀は事故による脳の障害で世界全てがこの世のものとは思えない異物にしか見えなくなる。それは長年付き合ってきた友人であっても例外ではない。その中で唯一「人間」の姿と視認できる沙耶に出会い惹かれていく。郁紀にとって沙耶との出会いが唯一無二の、かけがえのないものであったことは間違いないだろう。それはその後の彼の行動を見ても明らかである。

僕は今回再プレイするにあたって沙耶の視点に重点を置いた。沙耶の目に郁紀の姿はどのように映っているのか、これは一度は考えたことがある疑問だと思う。
作中で沙耶は躊躇いなく人間を捕食する。とすれば沙耶の目には人間は躊躇いなく捕食しても構わない姿として映っており、だから良心の呵責なく平然としていられるのではないか。我々が牛や豚などの「食料」に対して抱く感情のように。

もしそうならば郁紀とは我々にとっての人語を解する牛や豚のような存在と大差ないのではないか。会話が成立する牛や豚がもし存在したとすれば、なるほどそれは捕食対象にはならないはずだ。ただ恋愛対象とまで意識することは可能だろうか?良くて親愛感情止まりであろう。少なくとも僕にとっては困難である。
沙耶にとって郁紀が他の人間とは違う存在であることは理解できるのだが、それが恋愛感情に結びつくには少なくとも何か違う要因が必要になってくるはずだ。

しかしながら身も蓋もないことを言ってしまうと、僕が今ここで提示した疑問は全くの意味を成さないものである。そもそも沙耶という存在は我々の常識で推し量れる存在ではないからだ。
地球外生命体“沙耶”。作中で彼女はこう語る。
「ヒト科ヒト目の生体構造についてはね、沙耶はもう、この星でいちばんのエキスパートなの。いっぱい勉強したからね」
人間のエキスパートたる彼女を人間の常識で推し量ろうとすることがそもそもの間違いであろう。そのためこれは完全に自分の仮説に過ぎないのだが、沙耶にとって外見とは全く意味をなさない要素なのではないか。

恐らく沙耶は相手の心の有り様をそのまま外見として認識する。
つまりは自分を嫌ったり恐怖する人間は捕食対象として見ても構わないほど醜く、
逆に嫌ったり恐怖しない人間は恋愛対象として意識できるほど美しく、その姿が目に映っているのではないか。
沙耶にとっての恋愛とは精神性だけで成立するものなのだ。これは非常に観念的で崇高なものだと思う。僕には到底真似できない極地まで到達している。

そして沙耶が唯一美しく、恋愛対象として意識できるのが郁紀である(※1)。郁紀にとって沙耶との出会いはかけがえのない、唯一無二なものであったが、これは沙耶にとっても同様のことだったのだ。互いが唯一無二の存在であった二人が愛し合うのは最早必然だったに違いない。
(※1)正確に言えば先に沙耶が出会ったのは奥涯教授なので郁紀は二番目の存在ということになるのだが。だが恋愛対象としての人間は郁紀が最初で最後であろう。


エロゲに限らずとも我々が物語を楽しむ時は一種の自己愛とでも言えばいいのか、程度の差はあれ物語内で輝く主人公と自身を重ね合わせることでその欲求を満たす傾向がある。俗に言う主人公=プレイヤーの関係である。
例えば女装物エロゲであればプレイすることで「女の子になりたい」という欲求を満たしているし、その欲求を更に過激に推し進めたものがTS(性転換)物である。
萌えゲーであれば自身の理想の恋愛(女性)を作品の中で求めているとも言えるし、つまり我々は無意識にであれ主人公と自身を同一化させることで作品を楽しんでいる。主人公が重要な要素になっているのはそのためだ。

しかし沙耶の唄においては主人公との重ね合わせによる自己愛の満たしはもちろん共感でさえ成立しない。プレイヤーと事故により脳の障害が発生した郁紀との間にはかつてないほどの認識の齟齬が生じているからだ。描写不足も理由にはなるが、郁紀の突然の変容に何かしら納得の行かない点が出てくるのはある意味当然と言えよう。ただ僕に言わせれば沙耶の唄とは自己愛の物語である。正確には自己愛を眺める物語と言うべきか。

沙耶と郁紀は互いにとって唯一無二の存在である。世界から愛されない存在である彼らを受け入れることができるのは同じ世界から愛されない存在以外にはあり得ない。そこでの沙耶と郁紀の触れ合いは最早他者との触れ合いではなく自分自身との触れ合い、自己愛の投影であると言えよう。自分と同じ唯一の存在であるからこそこの上なく愛しく感じるし何としてでも守りたくなる。 世界から存在を否定された彼らはもう互いを愛することでしか自身の存在を肯定できない。彼らは互いの中に自分自身を見ていたのだ。自己犠牲すら伴う彼らの恋愛は貴く美しくもあり、そしてこの上なく悲しいものであった。

この沙耶と郁紀の、ある意味究極とも言える互いの自己愛を充足する物語が純愛物語であるかどうかは個人の価値観に委ねられるが、極めて純粋な恋愛物語であることは間違いないだろう。なぜなら彼らの恋愛は、愛する者のためには世界を壊すことさえも厭わないのだから。
僕にとって沙耶の唄は究極の自己愛を体現した美しくも切ない恋愛物語であった。



クトゥルー神話とか火の鳥のオマージュとか沙耶の唄は様々な角度からの考察が可能ですが、自分にそれに関するそこまでの知識がないということと作品の本質的評価にはあまり影響しないかなと思っているので今回は触れませんでした。

状況が状況とはいえ、「結局は恋愛は見た目が全てなんだ」という方向に帰結するのは皮肉でもありますね。環境が変われば今まで築き上げてきた関係なんて全く意味を成さないというか…。沙耶と郁紀の想いは極めて純粋なものであるけれども、その起点には第一に見た目があることを考えれば純愛と判断するのは難しいと感じる人もいるかもしれません。あと遥の扱いはちょっと可哀想だったかな。主題からずれるので意図的に救いを与えなかったんだろうけど。

個人的にはフィギュアとか出して欲しいなぁ…。
ともあれ何かしら動きがありそうなので沙耶の唄ファンとしては期待大です。
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42: by on 2013/02/02 at 01:38:06

この作品のレビュー待ってたひとりです

43:名無しさんへ by おく on 2013/02/02 at 03:21:24

コメントありがとうございます。
レビューを待っていたと言っていただけて本当に嬉しいです。

これからも作品のレビューを中心にブログの方は続けていきたいと思います。

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